香原斗志著「イタリア・オペラを疑え!」を読む

●2018年6月7日(木)、香原斗志さんが出された新刊「イタリア・オペラを疑え!」(アルテスパブリッシング)を読了した。大変面白く、また学ぶところが多い良書だ。値段は2000円(税別)と、この手の本としては少々高いが、オペラならずとも、クラシック音楽に少しでも興味ある者なら、読んでおいて損はない。

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●著者は、出版物やネットでよく名前を見かける著名な音楽評論家の方。本のタイトルの「イタリア・オペラを疑え!」は一見過激だが、内容は決して扇動的なものでも、奇をてらったものでもない。極めて実証的で合理的に論を進めるもの。但し、著者の熱い思いが詰まっていることに疑いの余地はない。

●序章「虐げられていたイタリア・オペラの地位を疑え!」でも示されるように、長年のドイツ音楽至上主義に基づく進歩主義的音楽史観による「偏見」のため、イタリア・オペラは「軽佻浮薄」のレッテルを貼られ、交響曲に代表される「崇高」な音楽に比して、はるかに「低俗」(良く言えば庶民的)な格下の存在とされてきた。本書は、イタリアオペラの知られざる真実を次々と明らかにし、その復権を果たすとともに、一人でも多くのファンを増やそうとする果敢な試みなのだ。

●本書の構成は、序章に続き、第一章「イタリア・オペラの常識を疑え!」、第二章「イタリア・オペラの歴史を疑え!」、第三章「イタリア・オペラの歌手と指揮者を疑え!」の3つの章からなり、各章は10前後のテーマで語られる。いずれも興味深く、どこから読んでも構わない。以下、いくつか私の寸評付でご紹介すると・・・。

【第一章から】

「ベルカント」というやっかいな語とのつきあいかた」では、今まで曖昧に理解していたこの言葉について「目から鱗」の思いであり、「二人の天才、ロッシーニとミケランジェロの意外な共通点」では、「普遍性」について考えを深めることとなり、「水と油のようで影響しあっていたロッシーニとベートーヴェン」では、ロッシーニの「セミラーミデ」(私も2016年日本初演を観た!)とベートーヴェンの「第九」が同等に評価されて自分のことのように喜び、「速攻でオペラを書きあげてもドニゼッティはいい加減ではなかった」では、ドニゼッティの名誉が挽回され大変満足し、「スペクタクルの代名詞《アイーダ》は室内楽的なオペラだった」では、このオペラの本質が静かな悲劇にあることに改めて気づく。

一方、ネガティブな意味で衝撃的だったのは、「「ロッシーニ・ルネッサンス」が進んで「ヴェルディ・ルネッサンス」が進まない理由」を読んだとき。現在でもヴェルディが意図しなかった「演奏慣習」が踏襲されているとは。人気があって上演が絶えなかったことによる「弊害」のようだが、是非、オリジナルを聴きたいと思う。

【第二章から】

「装飾過多なのに「バロック・オペラがモダンに聴こえる理由」では、私自身ヘンデルなどのオペラをとても新鮮に感じるので全くの同感と思い、「ヴェルディ《ナブッコ》は愛国的オペラではなかった」では、「それは知ってる」と満足し、「原作と異なる《ラ・ボエーム》のミミが創作されるまで」では、本当に驚くとともに、いかにもプッチーニらしいと納得した。

【第三章】
この章では、歌手や指揮者がテーマとなるが、著者の博識ぶり、いや寧ろ「情報通ぶり」というべきか、新鮮で鮮やかな切り口で話を進め、読者を大いに楽しませ、そして驚かせてくれる。

●本書が良書であることは冒頭述べたとおりだが、おせっかいながら一つ気になることがある。どんな人が読むのかということ。ワーグナーを崇拝するドイツ音楽至上主義の方々は決して本書を手に取ることはないだろう。オペラの入門者・初心者にとっては内容が少々難しすぎる。結局、本書は、もともとイタリア・オペラが大好きな人が、「我が意を得たり」あるいは「えっ、そうだったのか」と思いながら嬉々として読むものではないだろうか。かく言う私もその一人だ。新たなファンの拡大というより、今いるファンの更なる啓蒙という効果の方がはるかに大きそうだ。でも、それはそれで良い。だって、本当に面白いのだから。

以上

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